Variations on a Silenceというイベントは恐らく僕の人生の中で一度しか味わえない稀有な体験であったと思う。こうしたことが残りの人生で起こる可能性はとても低い。
その理由はこのイベントがいくつかのとても起こり得ないような偶然の重なりによって生まれたからである。その起こり得ないようないくつかの出来事の一つ目は、このイベントがリサイクル工場で行われたということ。工場という一般の人が来ることを想定していない場所でこのような不特定多数の来場者が来てしかも工場とは一見なんの関係もないようなイベントが行われることは一般的にはない。それが可能になったのは工場のオーナーである中島彰良氏の工場への熱い思いがあったからである。それは、「リサイクル工場は工場ではない」。ここに運び込まれる「ゴミ(と呼ばれるものは)ゴミではない」という信念による。つまりリサイクルという新たな業態、プロフェッションを、既成の概念から解き放ち、全く新たな、次世代に必須のものとして提示したく、そのためにリサイクルをアート化したいというのが氏の思想だったのである。そんな考えを持ったリサイクラーはまずいない。
二つ目はそんな中島氏の思い「リサイクル工場をガウディのサグラダファミリアのように作って欲しい」という気持ちを伝える相手として私がいたという偶然である。私は中島氏とは学生時代からの旧知の仲であり、彼のそんな思いの出どころも、その深いコンセプトもすぐに理解できた。
三つ目はサグラダファミリアのような工場の中で竣工直後、工場を稼働する前にアートイベントを行いたいと中島氏が言った時に、私の教え子の中にそういうことをやりそうな若くて才能のある学徒たちがいた偶然である。彼らこそがSETENV(環境をセットする)と名のるグループである。文学、社会学、文化資源学などを東大で学んでいた彼らは音楽やアートに関する並外れた知識を持っていた。そして自ら「ぴあ」のようなアート情報掲示板をネット上に作っていた稀有なグループだったのである。
そして四つ目はこの三つのグループ、リーテム、SETENV、私が率いるOFDAが心底このアートイベントを採算度外視で遊び倒してやろうという真摯な熱意を持っていたという偶然である。
こんな偶然の掛け合わせは一体どのくらいあり得ないことなのだろうか。こんな不思議なクライアント(リーテム)が存在する確率は10分の1、そのクライアントが彼らの希望を満たす建築家に出会う確率は10分の1、その場所で行うイベントにジャストフィットした企画者に出会う確率が10分の1、そしてその三者が持ち出しでこの仕事をしようと熱意を燃やす確率は10分の1としてみよう。するとこんなイベントが生まれる確率は1万分の1ということになる。だから人生に1回起これば奇跡ということなのである。
そんな奇跡のイベントに立ち会えたのは幸運だった。そしてそのイベントの目玉の作品がそのイベント(2005年)から16年後(2021年)に東京都現代美術館で展示されるというのはさらに奇跡的なことである。あの16年前リーテムに運び込まれたゴミ(と言うと怒られる)がアートとしてリサイクルされたこの事実は、しかし、もしかすると中島氏の大きな計画の想定内のことだったのかもしれない。そう思うと彼の奇跡を呼び込む構想力に今更ながら頭が下がる。ビジネスと倫理とアートの接点を生み出すこうした力がこれからの世界には必要なのだろうと思う。
写真提供:O.F.D.A.