SETENVが長年大変お世話になっている、キュレーターの中野仁詞さんに、一柳慧さんとの思い出について執筆していただきました。連載です。
一柳慧 ICHIYANAGI Toshi
神戸生まれ。作曲をジョン・ケージ、ピアノを原智恵子、B.ウェブスターに師事。高校時代(1949年)毎日音楽コンクール( 現日本音楽コンクール)作曲部門に第1位入賞。 52年に19歳で渡米、ジュリアード音楽院卒業。この間にE. クーリッジ賞、A.グレチャニノフ賞を受賞。ジョン・ ケージとの知己を得、偶然性や図形楽譜による音楽活動を展開。6 1年20世紀音楽研究所の招聘で帰国、自作品並びに欧米の新しい 作品の演奏と紹介で様々な分野に強い刺激を与える。ウィーン・ モデルン、ベルリン・フェスティバル、イギリスBBC、 パリ管弦楽団、チューリッヒ・トーンハレ、フィンランドAvan ti!などから作品の委嘱を受け欧米各地で精力的に作品発表と演 奏活動を展開。 神奈川県民ホール及び神奈川県立音楽堂ではオペラ『モモ』( 98年改訂版初演)、オペラ『愛の白夜』(2006年世界初演、09年改訂 版初演)、ピアノ協奏曲第4番『JAZZ』(2009年世界初演 )、オペラ『ハーメルンの笛吹き男』(12年世界初演)のほか、 多数の新作発表やプロデュース公演を行っている。尾高賞を5回、 フランス芸術文化勲章、毎日芸術賞、京都音楽賞大賞、サントリー 音楽賞、ジョン・ケージ賞、日本芸術院賞及び恩賜賞ほか受賞多数 。文化勲章のほか紫綬褒章、旭日小綬章受章。 08年より文化功労者。現在、日本・フィンランド新音楽協会理事 長、神奈川芸術文化財団芸術総監督。2022年10月7日逝去。
中野さんと私との出会いは、塩田千春さんの「アート・コンプレックス」(2007年)でした。記事で中野さんが触れておられますが、”音楽、ダンス、言語表現などの交流”が実験的に行われた企画で、日本でも、公的なところでこのようなかたちで実現することができるのかと、衝撃を受けました。
弊社は「日常/場違い」展(2009年)から関わらせていただき、展覧会の作り方、現場のまとめ方など、いろいろな面で勉強させていただきました。
中野さんを通じて、一柳さんの企画やパフォーマンスを拝見させていただいたり、一柳さんとお話しさせていただいたことは、私とってとても意味があることで、非常に大きな影響を受けています。
「一柳慧先生との思い出」、多くの方に読んでいただきたいと思います。
入江拓也(SETENV)
渋谷駅を降り、東急本店に向かう。一柳慧先生とのお打ち合わせだ。場所は、先生のご自宅からほど近い「カフェ シェ・ダイゴ」である。このカフェでは、先生が好まれていたケーキ、クレープなどの甘いものからカレーなどの食事まで、幅広いメニューが用意されている。先生との20年以上のお付き合いの中、その大半がこのお店での打ち合わせであった。一柳慧先生との旅行や食事にまつわるお話は筆者しか知らないところも数多くあるので、次回のテキストでまとめて書いていきたい。
一柳先生は、2000年に神奈川芸術文化財団芸術総監督に就任されて以来、今年(2022年10月7日)逝去されるまで、実に22年間、この財団の芸術の方向性を指し示しつつ事業の制作担当者を牽引し、音楽、ダンス、美術、言語表現など多岐にわたるソフトウエアについて指導をおこなってきた。筆者は先生が総監督に就任してから2年後の2002年に、本部企画課の演劇担当から神奈川県立音楽堂に異動し音楽事業の担当となった。かねてより音楽の仕事がしたいと考えこの財団に転職し、ようやくかなったポストであった。ただ、当時、筆者はまだ30代前半である。作曲家・ピアニストとしてすでに高名であった一柳先生に若輩者の自分が企画を出すのはどうなんだろう? と考えつつも、A4サイズ1枚のプランを先生に、「こんなことを考えておりますが、お目通しいただけますでしょうか」と恐る恐る手渡した。筆者のプランは、音楽・現代美術・日本の伝統を組み合わせた新作舞台であり、能の上演と、書家の手になる書、現代音楽という3つの要素を実験的に融合させたいと考えたものだった。能については、演劇の担当時にお仕事をさせていただいたご縁もあり、観世栄夫先生に演出と出演の依頼を考え、書については、神奈川ゆかりの書家である井上有一先生、そして音楽についてはもちろん、一柳先生に新作を書いていただきたかった。
プランを提出した翌日からほぼ毎日、携帯に先生から電話をいただきこの企画についてお話をした。「カフェ シェ・ダイゴ」でお目にかかって直接お話いただくこともあった。まず先生からは、「台本をつくるように」と指示があった。「先生、台本はどなたにお願いすればよろしいでしょうか?」と聞き返すと、「詩人の大岡信さんがいい」とおっしゃった。大御所のお名前だ。30代の筆者と当時大学を出たばかりのアシスタントとの二人で新作舞台をプロデュースするのにはかなり荷が重いと感じた。しかし、相当数の打ち合わせと稽古を重ねた結果、2年後の2004年8月4日、神奈川県立音楽堂開館50周年記念公演《生田川物語‐能「求塚」にもとづく》として初演された。世阿弥の《求塚》を大岡信先生が現代的な台本として書き下ろし、全体演出とシテとしての出演は観世栄夫先生、音楽とピアノ演奏は一柳慧先生、出演者は野村万作先生ほか名だたる方々となった。音楽堂1,000席は完売となり、多方面から評価をいただいた。
一柳先生とは、この新作舞台を皮切りに実にたくさんの企画を一緒に作ってきた。生田川物語につづく創作舞台としては、19世末のウィーンを舞台として、作曲家・指揮者グスタフ・マーラーの妻アルマ・マーラーに焦点を当てた「19世紀末のミューズ アルマ・マーラーとウィーン世紀末の芸術家たち」や、オランダ・オーストリアからのアンサンブル招聘と公演にともなう新曲の初演など、多岐にわたった。
筆者が神奈川県立音楽堂から神奈川県民ホールの美術担当になってからも、先生との痺れる企画は続く。その話はボリューミーなのでまたの機会にまとめて話したいが、少しだけ話すと、その第一弾は、今では名実ともにわが国を代表する美術作家となった塩田千春の大規模個展と音楽、ダンス、言語表現などの交流を実験的におこなった「アート・コンプレックス」(2007年)である。
今後、連載として一柳先生との思い出について、何回かに分けて掲載するつもりなので、どうぞお楽しみに。