先日、ワタリウム美術館で加藤泉「寄生するプラモデル」を観た。今でもよく覚えているが、わたしが加藤泉の作品をはじめて観たのは、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催された「クリテリオム46 加藤泉」(2001)でのことである。その後もいくつかのグループ展で作品を目にする機会はあったが、海外での評価の高まりにともなって、国内でその作品に接するチャンスは減じていった印象がある。すくなくともわたし個人の記憶では、加藤泉の個展に足を運ぶのは2007年の「人へ」(アラタニウラノ)以来、じつに15年ぶりだった。
わたしがはじめて観た加藤泉の作品は絵画だったが、以来いくつかの展覧会で観ることになった作品のほとんどは木彫だった。ひとりの観客として言えば、2000年前後にはじめて出会った絵画作品が長らく脳裏に焼きついていたため、それから作品が木彫をはじめとする立体へと展開していったことの意味をあまり推し量れずにいた。それは今も変わらない。
そのような回想はともかくとしても、「寄生するプラモデル」にはいろいろな意味で驚かされた。まず、事前に想像していた「プラモデル」と、作品の一部となっていた「プラモデル」の隔たりに大いに驚かされたことを告白しておかねばならない。今回、作家が使ったのは(おもに)欧米で生産されたヴィンテージのプラモデルで、そのほとんどは人体や動物の解剖見本のようなものだった。展覧会タイトルにある「寄生するプラモデル」というのは、プラスチックでかたどられた人間や動物が、木やソフトビニールでつくられた加藤泉のヒトガタに「寄生」しているということだ。
なるほど、このまったく質感の異なる二つ(ないしそれ以上)の生き物たちが「寄生」関係にあるというのは、直感的に納得させられるところはある。サイズから言っても、ヒトガタとプラモデルは基本的なスケールを異にしており、小さいほうが大きいほうに寄生していると言われれば、なるほどそうなのかと納得させられてしまう感じがある。
しかしそのうえで言えば、なぜ「寄生」なのか、という疑問が頭をもたげないわけではない。作家の言葉によれば、コロナ禍のあいだにネットで中古のプラモデルを買い集めたことが今回の作品につながったというのだが、なぜこれらのプラモデルがヒトガタに「寄生している」という発想になるのだろう。前述のように、それは直感的にはわからなくもないのだが、いまひとつ腑に落ちないところが残ることも事実だった。
それはさておき、もうひとつの驚きは、本展覧会の最後(四階)に控えていたオリジナルのプラモデルだった。この作品──「オリジナル・プラスチックモデル」と銘打たれている──は、自然の石をかたどったプラモデルと、その上に貼るためのデカールからなる。これは、作家が2016年から取り組んでいる、石を使った作品から発想されたものだ。たとえば2022年のリボーンアート・フェスティバルにおいては、石巻の近くで採れる稲井石を組み合わせて、それにペイントを施した作品が発表されている(ちなみにそのうちの一体は、今回の展示期間中、ワタリウム正面の空き地に姿を現していた)。
この、自然石をかたどった作品こそ、文字通りの「寄生する」プラモデルではないだろうか。この「モデル(石)」と「プラスチックモデル(作品)」の関係が、本展覧会のタイトルにある「寄生する」プラモデルのもうひとつの含意ではないか──そのように考えると、途端に合点がいくように思われる。
ここまでのような見立てが許されるのなら、本展覧会の「寄生するプラモデル」というタイトルには、少なくとも二つの含意があることになる。そのひとつが、加藤泉の彫刻作品に寄生する(既製品の)プラモデルであり、もうひとつが石をかたどった、その存在自体が寄生的な(オリジナルの)プラモデルである。むろん、基本的にここで想定されているのは前者の意味だろうし、時系列から言っても、前者が後者の作品よりも前に出てきたものであることは疑えない。だがわたしの直感では、加藤泉の作品において「寄生」というキーワードは、たんにヴィンテージのプラモデルが既成の彫刻作品にくっついているという以上の、何かずっと大きな射程を示しうるものと思えてならないのだ。
出来合いのプラモデルによって「寄生」されるヒトガタの彫刻と、まるで石に「寄生」するようにつくられたヒトガタのプラモデル──。ここには、何かに寄生されるものが一転して寄生するものに転じるという、一筋縄ではいかないダイナミズムがある。とはいえそもそも、寄生(parasite)とは本来そうしたものだろう。寄生虫と宿主の関係は常時固定的なものではなく、各々がおかれた状況に応じて、両者の関係はたえず入れ替わる。「寄生するプラモデル」における加藤泉のヒトガタもまた、時に何ものかに寄生され、時にみずから何ものかに寄生する、そんな両義的な形象として姿を現しているとは言えないだろうか。